「夫れ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し」 (般若心経秘鍵)
お大師様が、般若心経の講釈書「般若心経秘鍵」(はんにゃしんぎょうひけん)の冒頭部分で著された言葉です。
仏法とは仏となる法を言いますが、とても複雑で難解なことのように聞こえます。言い換えると仏となるための大事な肝の事で、仏となるとは死を迎える事ではなく、悩み・苦しみ・迷いの無い安らかになる事です。そのための肝心な素が、「遠くに有るわけでもない、一番近い自分の心の内に有るのだよ」と言っておられるのです。
さらにお大師様は、「迷悟我に在れば発心すれば即ち到る」と著され、「迷いも悟りも自身に有ることから、心を発すれば、必ず安らかな境地に到る」と言われているのです。
お大師様が言われる「心を発する」とはどういう事か。
私たち人は、自分にとって損か得かを量り、思うようにならないと腹が立ち、物事の道理を知らないまま憶測で物事を見るというように、様々な事に心が動かされ、いつも喜怒哀楽を感じながら過ごしています。それは誰もが持つ心の表面にある人間臭さでもあります。
また、ある時、街中を歩く自分がいたとします。目の前で人が段差につまづき、ひどく転びました。「あっ!」という声が出ます。その人は膝を地面に打ち付けたようです。「大丈夫ですか!!」と言いながらその人を引き起こそうとします。擦りむいた膝がとても痛々しく感じます。
この時、無意識に声が出、手を差しのべ、痛みを察しています。誰かに言われたわけでもなく瞬間的に反応する自分がいます。縁もゆかりも無い人なのに。また自分が得するわけでもないのに。
私達の心の深層には、
①人の痛み悲しみを感じる心
②人の喜びを感じる心
③自分の損得を超えた優しい心
④人や生き物・自然界に対する大きな愛情(慈しみ)
を宿しており、人間臭さと同時に、自分以外に対する心も持ち合わせています。
これが仏となる肝心な素で、慈・悲・喜・捨の四つの極めて大きな心を言います。(四無量心)
この心は普段はあまり表には出ず、大きく心を動かされた瞬間に自分では意識しないまま現れます。
お大師様の言われる「心を発する」の心は、普段表には出ないで心の底に隠れている尊い四つの心の事で、発するとは、花などがぱっと開くように外に向かって広がる事を言います。
弘法大師は、「自心に有る尊い心に気が付き、外に向かってその心を言葉とし、体の動きとして調和するならば心安らかに到る」という事を私達に教えて下さっています。
「あっ 自分にもあるんだ」と繰り返し思ってみて下さい。言葉が出ます。動きが出ます。
健善坊
阿(ア)
「始まりと終わり」
吽(ウン)
物事には始まりがあれば必ず終わりがあります。仏教ではこの事を「ア」「ウン」と表現し、梵字(サンスクリット語)では上のように表記します。
私達が小学校で習う「五十音」では「ア」の音が母音の中でも一番最初の音で、口を大きく開けて発する声です。さらに、赤ちゃんが生れた瞬間に力いっぱい発する声は「オギャ~!」ではなく、「アァ~!」の声なのです。
五十音の中で唯一別格なのが「ウン」です。別格とは、ほかの音はすべて口を開けて音を発しますが、「ウン」だけは唯一口を噤んで(口を閉じて)発する音なき音です。正確に言えば、「ウ・ン」ではなく「フ・ン」で、口を閉じる際にかすかに漏れる息の音と、口を閉じ一瞬息を止めて鼻から漏れる息の音です。このことから五十音中どの枠にも当てはまらない別枠の一番最後に示されます。また、人生の最後に発する音なき音なのです。
弘法大師は「阿字は、一切法教の本である(アという字は、すべての真理の教えの根本である)」と説かれ、さらに「およそ最初に口を開いた時の音は、みなアの声であり、もしアの声を離れたら、一切の言説(ことば)はないのである」と、アの声がすべての始まりであり、きわめて重要な礎であることを著されました。
次に、上の梵字は、通常「ウン」と言いますが、ハ(ha)・ア(a)・ウー(ū)・マ(ma)の合成文字で、hūṃ(フン)と発音します。
大師はこの「吽字」について、擁護・自在能破・能満願・大力・恐怖・等観歓喜などの力を有することを説かれ、悟りに至る局面において、助けとなる大きな力を有するもので、大きな力により恐れから擁護し、自在に迷いを打ち消し、願いを満たして、悟りの境地に至るものであると。
「吽」は、誰もが願う最終目的「安らかとなる」ということへの極めて尊い力を持ち、到達点に至る重要な音であるという事です。
高野山の入り口には、国の重要文化財である「大門」(だいもん)25.1mが聳え立ちます。高野山金剛峯寺の総門で、江戸中期(宝永2年)に再建されました。
かつて高野山で修行する僧侶たちは、志を抱いて大門をくぐり、弘法大師の教えに出会い、修学と修行を経て阿闍梨(あじゃり :高野山の僧侶)となり、門をくぐり出て山を降り、人々の教化・救済の活動に携わりました。
弘法大師以来高野山は、僧俗を問わず、様々な人たちが多く参詣に訪れ、その誰もが心に思いを抱いて大門をくぐりました。山内巡礼の中、祈りとともに大師の息吹を感じ、安堵を得て、高野山を後に山を降りたのです。
大門の右には口を開けて「アー」と言う「阿形像」(あぎょうぞう)、左には口を噤(つぐ)んで「ウン」と言う「吽形像」(うんぎょうぞう)の二体の「金剛力士像」が安置されます。5mを超える姿に、いかにも始まりと終わりをしっかりと見守るかの様な印象です。。
私たちは日常的に、1日の始まりと終わり、ひと月の始まりと終わり、1年の始まりと終わりなど、一つの節目として、気持ちを転換する境目を大事に過ごします。
始まりがあれば必ず終わりがある。終わりがあれば、必ず始まりがある。始まりがなければ、終わりもない訳で、始まりがあってこそ、終わりがあってこそなのです。
始まりの段階で重要なのは、「思いを起こす」ことで、思いを起こす為には終わりの段階で「これで良かったのか」と振り返ることです。
自分の過去を振り返る中、思い起こすたびに残念でならないことを「後悔」と言います。さらに「後悔先に立たず」と言い、これは、後ろを振り返って残念に思っているあいだは前に進む事も出来ないのだ、という事です。
ではどのように振り返ったら「思いを起こす」ことができ、前に進むことができるのでしょうか。
人の日常は、「心」で思い、「言葉」とし、「体の動き」とする、身・語・意の3つの要素から成り立っています。このことから、過去を振り返った際に残念がらずに一歩踏み込んで、その時の自分の心の状態はどうであったか、その心から出た言葉はどうであったか、その時の心から出た行動はどうであったかを点検します。点検の際の目安は、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の3種の物差しを持って行います。
①貪(むさぼ)りの心・欲の深い心でいなかったか。自分の損得を量っていなかったか。
②瞋(いか)りの心・腹を立てる心でいなかったか。いらだちはなかったか。
③痴(おろ)かな心・本当のことを見極めない邪推の心でいなかったか。冷静に見極める事ができていたか。
振り返り点検により見えてきたことで、「今度は」との思いが生まれ、一歩前に進もうとする自分がいます。「思いを起こす」こととなります。
これが始まりの段階での、自分の新しいステップで、前に進む足がかりとなり、大きな力となるわけです。
昨日よりは今日、今日よりは明日へと新しい自分の生き方を積み上げていきます。振り返って点検し、前を向いて進む。
「サァー」の声で始まり、「ウン、ウン、そうだったよね」と振り返ってみることをお勧めします。
健善坊
高野山大門・金剛力士像の2画像は、旅の写真画像集http://photo.rich-navi.net/より使用させていただきました。
○義辨上人霊験の記録「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)
写真の石塔は「宝篋印塔」と言います。 宝篋印陀羅尼或いは宝篋印陀羅尼經を地中に納めて建立されます。
「宝篋印陀羅尼經」には、お釈迦様が無垢妙光というバラモンの家に向かう途中で、いばらに覆われ朽ちた塔が大光明を放つのを見て、はらはらと涙をこぼされ後に微笑んで「この塔は、一切如来の全身舎利をあつめた宝塔である」とおっしゃり、この塔の功徳と陀羅尼をお説きになった(極略)。と記されています。
その功徳とは、このお経を書写し、塔の中に安置するならば、一切如来の神力に擁護される。この塔を礼拝或いは一花一香の供養するならば、すべての願いが満ち足りる事となる(極略)。と説かれます。
塔そのものが、すべての(一切)如来の徳を有する事から、この世のすべての災いを取り除き、すべての願いを満たし、すべて安らかな心境の成仏に至らしめるという、譬えるならば入れ物に折重なり隙間なく詰められている胡麻の粒の如くに仏法の宝が籠もっている(宝篋)とされます。
この事から、古くから経文・陀羅尼を書写し、塔に納めて供養し、祈願をする信仰が行われてきました。
円明寺の門前に有る宝篋印塔は、江戸中期の享保十一年秋に義辨通範上人によって建立されました。
この拓本は塔の中段に刻まれた義辨上人の修行と、信者とともに得た霊験の記録です。
本文
所修功徳三千日課護摩供養 現前壽城(域)當登覚位 廻向一切三宝願海 唱念功徳大随求全丸四十八萬遍 期願成辨悉円満 廻向一切三宝前 依此念功徳我及餘信者 得見弥陀佛无邉功徳身 既見彼佛已願得離苦眼證无上菩提 享保十一年丙午天暮秋十一日 傳法瑜伽者 義辨頭陀欽言
訳文
今この世において、當に覚位(覚りの境地)に登らんと心を決めて、三千日の護摩供養を日課としました。修する功徳は、すべての三宝(仏法僧)と如来の願いに廻向いたします。 大随求陀羅尼を発願より数えて四十八萬遍唱え念じた功徳は、(円明寺再建の)願いを成しとげ悉く円満をむかえました。すべての三宝の御前に感謝廻向を申し上げます。
此の念ずる功徳に依り、私と共に祈る信者は、阿弥陀さまのとても尊いお姿を見る事を得ました。そのお姿を見已(おわ)ると、願いを得て苦しみの表情は失せ、このうえ無い菩提を證じました(安らかな境地に至った事を悟り実感しました)。
享保十一年丙午天暮秋十一日 傳法瑜伽者 義辨頭陀欽言(密教授法行者 僧ぎべん つつしんでもうす)
義辨上人が三千日の護摩供養を日課とし、大随求陀羅尼を四十八万遍唱えて満願の日をむかえ、無事に円明寺再興の願いを成就した事、さらに、その修業の中、祈る信者と共に、尊い阿弥陀様のお姿を見て、誰もが苦しみが失せて願いが成就し、安らかな境地に到ったという事が記されています。義辨上人と共に祈った人々に現れた霊験の記録です。
この翌年、土岐郡小栗久左衛門氏は阿弥陀如来の浄土を現わす「浄土変相図」を寄進なされました。もしや小栗氏はこの場に居合わせ、ともに祈っていたのかもしれません。
宝篋印塔梵字
左からウン・タラーク・キリーク・アーク
義辨上人の修行念誦記録
大随求陀羅尼は「隋求法」という行法(供養法)の中で唱えられますが、義辨上人はこの長文の梵語(サンスクリット語)のお経を書写し、隋求法を修するたびに何度も繰り返し唱えられました。
随求陀羅尼は、隋求菩薩の内證(悟りの世界)を説く梵語のお経で、数ある陀羅尼の中でも極めて稀な長編の陀羅尼です。
不空三蔵の漢訳では、極めて広大な利益が有り、この陀羅尼を聞く事・読誦する事・書写する事・携帯する事は大きな功徳となり、諸仏・菩薩・明王・諸天に見守られ、あらゆる願いを成就し、大安楽を得る。(極略)
このことから古来インド・中国・日本に於いても聞・読・書写・携帯が行われてきました。
義辨上人は、実に26年に亘り読誦を実行し、その数763,000遍あまりに達します。
写真は大随求陀羅尼一巻で、右手前からが始まり左奥までびっしりと梵語が記される長編の陀羅尼文です。
○小栗久左衛門家と円明寺
土岐郡 小栗久左衛門家は、享保6年本堂の須弥壇寄進など円明寺再興に大いに貢献なされた家柄です。
さらに享保12年夏、小栗久左衛門家より阿弥陀如来のお浄土を現した通称当麻曼荼羅と言われる「浄土変相図」(絹本)一軸が寄進奉納されました。写真右の箱書きには、久左衛門氏のご母堂が亡き夫の菩提を弔うために寄進した事が記されています。
小栗氏が円明寺の再興に関わる事となった仏縁については、義辨上人の直接の関係なのか、或いは市岡氏又は橋爪氏さらに小幡氏であるのかはいまだ判明に至っておらず、今後も引き続き小栗久左衛門家の調査が必要となります。
近年、瑞浪市では「桜堂薬師」涅槃図の寄進者記録等が発見されました。小栗久左衛門氏の名も確認されており、久左衛門氏の信心の深さを感じます。
○弟姫の恋伝説と円明寺
・泳の里(くくりのさと)
ここ久々利の里では、その昔第十二代景行天皇が行幸なされ、此の地に住む「八坂入彦命(やさかいりひこのみこと)」の娘「弟姫(おとひめ)」と過ごした恋の物語が伝承されます。物語では天皇は乙姫を后にと都に連れて行きたいと願いますが、弟姫は恋心を胸の内にしまい、姉の「入媛(いりひめ)」を后にと身を引き、以来姿を見せなくなりました。その後、姉の入媛は天皇と共に都に旅立ち后となり成務天皇をもうけます。悲しみに暮れる弟姫は行方知れずとなり、誰一人としてその姿を見るものは居なくなり物語は終わります。
(可児市ホームページ 久々利のむかし話 「くぐりひめ」https://www.city.kani.lg.jp/14983.htm)
日本書紀には、景行天皇 四年春二月に美濃に行幸されたことが記され、泳宮の事、弟姫とのやり取り、姉の入媛を后とし七男六女を生み第一子が成務天皇となった事などが著されています。
更に、万葉集巻の十三(13-3242)には、
(訓読)
「ももきね 美濃の国の 高北の くくりの宮に 日向ひに 行靡闕矣(ゆきなびかく) ありと聞きて 我が行く道の奥十山 美濃の山 靡けと 人は踏めども かく寄れと 人は突けども 心なき山の 奥十山 美濃の山」
とあり、詠み人知らずの歌ですが、景行天皇であろうと言われます。
景行天皇と弟姫が楽しく過ごした中で「水潜り(みずくぐり)」など水遊びをした事から「くぐり」が訛って「くくり」という地名となったことや、水遊びで衣が濡れて岩の上で衣を乾かした事から「御衣乾岩(おころもほしいわ)」と名付けられたり、野山で遊ぶ中「麻呂が山(まろがやま)」の言葉から訛って「まるやま」の地名となったなど数々の伝承が残されています。
(可児市ホームページ 泳宮くくりのみや https://www.city.kani.lg.jp/15738.htm)
江戸後期の国学者櫛田道古の「泳宮図絵(くくりのみやずえ)」では、「景行天皇勅号 丸山」と記し、丸山村の描画を紹介しいています。何れも伝承の域を出ませんが、久々利の里にはあちらこちらに今もなお昔話の種が残されています。
因みに円明寺の古い時代の字名は、「丸山村字日向」と言いました。また、寺の西側には民家の庭に「御衣乾岩」が鎮座します。
・泳宮図絵(くくりのみやずえ)に見る泳の里
久々利千村家の家臣であり国学者でもあった「櫛田道古」は、此の地が景行天皇が行幸されたところである事を表すために、「泳宮図会」を編纂しました。泳宮がこの地であった否かは過去に少なからず議論は有りましたが、当時のこの地の風景を知るうえで大変貴重なものとなります。
御衣乾岩は、現在個人の家の敷地内に存在します。
御衣乾岩と共に、代々土岐悪五郎と名乗った土岐家の城山と、当時の円明寺が描かれています。
土岐家の城跡は、図のようにいくつもの山ではなく、御衣乾岩・円明寺を取り囲むように、左手前の山から連なった形で薬師洞に至って遺構を残します。
また、円明寺の境内はもと土岐家御所垣の内「西の方屋敷」という所で、この絵図の円明寺より右側の平地に土岐家御所が有りました。現在の丸山地区久々利川右岸に御所は有り、城山の直下で、久々利川という天然の堀が有り、右岸沿いに土岐一門との行き来が出来る場所でした。また当時は、尾張の勢力を見据える為の重要な拠点であったと思われます。(土岐家の城と御所跡については別途あらためて掲載します)
櫛田道古 編「泳宮名所図会」より (写本 名古屋市図書館蔵)
景行天皇御衣乾岩図より一部分掲載
・泳中央から東部の鳥瞰図 櫛田道古 編「泳宮図会」より
上部の山は「奥磯山(奥十山)」で、可児市で一番高い山です。
中央下には千村家の「上邸」「下邸」が有り、下部分には千村家菩提寺「東禅寺」、千村家の姫様が目の病にご霊験を得た「友円寺」、土岐家城跡の「城山」などが描かれます。
景行天皇の泳宮跡は、中央右の「泳池」で、入媛・弟姫の父八坂入彦命の墓は、左上部の「皇子塚」と記しています。
(可児市ホームページ 久々利城跡 https://www.city.kani.lg.jp/15712.htm)
(可児市ホームページ 八坂入彦命の墓 https://www.city.kani.lg.jp/17500.htm)
下の絵図は「泳宮図会」より抜粋の図です。
・景行天皇行幸泳宮幷泳池等古跡(左上)
・久々利大萱崇神天皇御子八坂之入彦命御塚墓之圖 八釼社(右上)
・景行天皇御衣乾岩(左下1) ・景行天皇勅号丸山(左下2) ・奥磯山(右下)
櫛田道古 編「泳宮図会」より (写本 名古屋市図書館蔵)
(「泳宮図会」http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001381)
「円明寺らいぶらりー」は、今後更に新しい展示を追加する予定です。
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