円明寺に残された「宝珠地蔵菩薩」は、その造像様式から平安末期頃と思われ、その頃には既にお寺は存在していたと推測されます。室町期に火災に遇い現在の場所に再興されました。
凡そ寺院の建立には、その場所でなければならない理由が必ず有ります。平安期の開創にはどのような理由で建立されたのか、何処に有ったのか今では不明ですが、その後現在の場所に再興された事には、また新たな意味が有ったものと思われます。僅かに残された手掛かりをもとに、円明寺の歴史をたどってみました。
・希望を抱いて名古屋へ(宗門改めの手形差出以後の三尾家)
①円明寺過去帳「古記に曰く」
創建は不明ですが、「円明寺別記」に保元年間頃(およそ860年前)と記される事から平安時代後期には既にお寺は存在していたようです。
左の写真は、円明寺の過去帳見開きに記される「古記曰」(古記にいわく)部分です。
円明寺過去帳の冒頭には、
「古記に曰く 久々利平牧の堂を円明寺と号す 根本阿弥陀仏の木像なり 国中第一の大仏なり 薬師如来宮殿六尺四方 脇に安置の十二神は八歳の童子の長(たけ)也 回録(焼失)は文安六年己巳二月(1449)なり 柱立ては宝徳二年庚午(1450)なり 享徳元年壬申(1452)同二年癸酉(1453)両年間に薬師仏並びに十二神彫刻するなり 本願主は禅宗沙門幸心 当郷御所垣内西之方屋敷に寶川庵を造立 これ地頭民部少輔春頼桃林居士の代なり
于時永正十五年(1518)戊寅三月
当郷之素生正播記之
以上往古之録事」
とあります。
①久々利平牧に有るお堂を円明寺という。(久々利に平牧と呼ばれる場所が有ったと思われる)
②ご本尊は木造の阿弥陀如来である。国中で一番の大きな仏像である。
③薬師如来の厨子は180㎝四方、両脇に安置される十二神将は八歳の子供の背丈程である。
④ 寺が焼失したのは文安六年二月(室町時代 1449)である。
⑤円明寺焼失の翌年(宝徳二年1450)にはお堂の建設に取り掛かり、本尊薬師如来と十二神将を2年かけて彫刻した(享徳元年1452~享徳二年1453)。
⑥再建の本願主としてその中心となったのは、禅を学ぶ幸心という修行僧で、この地の御所垣内「西之方屋敷」にお堂「寳川庵」を建てたのは、春頼桃林居士の代である。
このように記されます。
文末に「以上往古の録事」とある事から、永正15年(1518)に記述された文書を写したもので、寺の過去帳に記されてはいますが、寺の素生を後世に残す事の為に何れかに有った文書を書き写したものと思われ、元の文書は僧侶によるものでは無いと推測します。もし僧侶が記録するのなら、焼けた寺の詳細・新たに薬師如来を建立する事の趣意や為書き・入仏供養の事等々記し、最後に自身の名前を記します。僧侶ではない事は明らかです。ではいったい誰が書いたのでしょう。
この文書は、よく見ると、「なり」で区切られる箇条書きが連なった形の文章です。おそらく、永正15年から遡り68年前に起きた出来事の年月はわかるが、その詳細は良く知らないという人が書いた文書で、春頼の戒名の一部が記される事から、春頼の死後この地に住む土岐家の人か、極めて土岐家に近い人により記されたものと考えられます。
また、「當郷之素生正播記之」部分を言い換えると、「私の住いする土地と家柄と過去の出来事を、正しく広く伝える為にこれを記す」というように解釈できると思います。文書全体からの印象は、「焼けた由緒のある寺を復すに、御所の一角に早速お堂を立て、薬師如来と十二神将を刻み祀ったのは、地頭春頼さんの時代だよ!」と胸を張って公言しているように感じます。皆さんはどの様に読み解かれるのでしょう。
≪令和2年現在 土岐家により復興開山から567年経過≫
②土岐家建立の地蔵菩薩
円明寺を寳川庵として復興した土岐春頼は、久々利土岐氏第三代の城主であり、久々利城築城の初代土岐康貞・二代行春・三代春頼・四代頼忠と続きます。
春頼の戒名は、「桃林源公居士」で、源氏の武将であり城の主(公)である事がわかります。桃林居士は、その人となりを表すものと思われます。春頼公は、もしかして桃の花を好み屋敷に何本も植えていたのかもしれません。(書経 周の武王の故事「帰馬于華山之陽、放牛于桃林之野」に因むのかもしれない)
写真の延命地蔵菩薩坐像(石像)は、春頼の子頼忠が、父の菩提を弔うために建立したものです。(1487年)
石像の背面には、
「文明十九年 丁未 六月二日
桃林源公居士廟所本尊 孝子頼忠 敬白」
とあります。
廟所本尊と記されている事から、元は春頼の廟所つまりお墓に安置されていたものですが、春頼のお墓がどこにあったのかは不明です。おそらく屋敷のどこかに墓所が有り、この地蔵菩薩が祀られていたものと思われます。土岐頼興の時代に至り城落したことから、久々利土岐家の詳細は以後不明となっています。
お地蔵さまの頭部と胴体の均整がとれていないのは、後の時代に頭部を補ったと考えられます。落城とともに屋敷も墓所も荒らされ、果てはお地蔵様の手も首も刎ねられたのかもしれません。いつの頃からか、この石像は寺の山門の脇に祀られていました。村の人達が運んだのでしょう。
現住職が子供の頃には、石像の首部分をセメントで接合してあった事から、時々頭部が下に転がっていた事も有ります。昔の子供たちは転がっている頭をボールの様に放り投げて遊んでいたそうです。やはりお地蔵様は子供の守り仏である事から、自らの頭でもって子供達と遊びながら見守って下さったのかも知れません。その子供の一人は、高校野球でピッチャーとして活躍した方もいます。
現在は、可児市により風化を防ぐ補修と修理が施され、さらに風雨にさらさないよう地蔵堂に保存安置しています。
天正11年(1583)土岐頼興が討たれ、久々利城は落城しました。それ以後大檀那を失った円明寺がどの様になっていたのか不明です。
僅かに江戸前期頃の住僧が残した行法次第(供養法・祈願法を記した文書)と、僅かな記録が伝えられているのみです。
○1654 承応3年正月吉日
「諸尊通用表白并結願作法」日向住 實清(当時この地は日向と呼ばれていた。日向の地の寺に住まう實清という僧侶)
○1661 寛文元年辛丑10月吉日
「不動法」於円明寺奉書写 快林(花押)
○1668 寛文8年12月7日 円明寺別記より
「宝池(智)院良筧の記に薬師堂再興の文書有り
(梵字)奉再興薬師堂一宇諸旦那中如意安全祈 地頭 三尾惣右衛門尉安信」
○1700 元禄13年 33回目のご開帳の年に当たる(独門頭陀の記) 円明寺別記より
○1701 元禄14年3月 円明寺別記より
「薬師堂再修理 住持洞山末派独門頭陀
尾州太守松平氏吉通公幕下 地主 三尾惣ヱ門尉 同姓意端老
庄屋 忠兵ヱ 同 弥次右ヱ門
組頭 喜左ヱ門 大工 保七郎」
①過去帳別記 智栄
江戸中期に入ると、南都西大寺を復興した叡尊律師(興正菩薩)の法流を、河内の国の野中寺にて継承した義弁通範上人の発願により、地頭三尾氏の寄進と、大阪「市岡新田」の開発者で伊勢桑名の市岡宗栄氏の尽力により再興が果たされました。
以下は、それを記した「過去帳別記 智栄」部分です。
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その後堂宇は跡形も無くなり遺跡のみ残っている此処に、享保の初め頃(1716年)私の師匠である先代通範上人は、由緒ある寺の遺跡の地を、自らの衣をお金に換えて買い求めようとしたところ、当地の地頭である三尾可休居士は、上人の深い志を感じて土地を五十畝(1,500坪)有余寄進なされた。さらに伊勢桑名の市岡宗栄居士は浄財を寄進し自ら願主となり、あの地この地と縁者を訪ね駆け回り、寄進を呼びかけ、材をあつめ、職人をそろえました。これにより享保六年辛丑春(1721)より工事が起首して同年十二月に至って本堂さらに庫裏など悉く完成し落成を致しました。
その後享保の時代も過ぎ、すでに師匠の通範上人は亡くなられ(1732.7.17寂)、私はその後を引き継いでこの地に住まいして過ごしております。
我が師通範上人の円明寺再興の願いは、堂宇こそ整ったとはいえ、この地には元々円明寺という寺号が有るものの、しばらく昔に荒れ果て、寺社役所の帳面からその名が除かれてしまい、正式にその寺名を名乗る事が出来ないままでいました。
この事に私はさらに本来の「平牧山円明寺」の寺号を復活させることを発願し、何れかの処に寺号のみが残されている寺は無いものかと考えました。
当州武儀郡の洲原神社にお寺が有り、寺の名は「観音院」といいます。高野山増福院の末寺で、困窮して住む僧侶も居らず廃寺となり、その寺号は洲原神社預かりとなっておりました。私はこれを聞いてさっそく洲原神社に行き、神社の神職や関係の人たちに観音院の寺号を頂けるようお願いしたところ、この事を快く承諾して下さいました。
延享三年乙丑(1746)八月五日に尾張の寺社役所に願書提出し、同年九月二十六日には寺社役人の見分有り、十二月五日には長年の願いが叶い、思いを実現する事が出来ました。
「観音院」を改めて「平牧山円明寺」と名乗る事を許可する旨、役所よりの直接のお達しが有りました。
ここに我が師通範上人をもって開山の祖とします。私は第二世に居します。
後々の為に委く由来を記し置くものとします。
円明寺第二世 智榮
(現代語訳 円明密寺主 健善坊)
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洲原神社の情報 岐阜女子大学 郡上白山文化遺産デジタルアーカイブ http://digitalarchiveproject.jp/information/洲原神社/
中興第二世 智榮静性律師肖像
人々の惜しみない喜捨により堂宇の落慶を迎え、通範上人の再興の志が実りました。その後、再建起首から25年を経て智榮上人の代にようやく「平牧山円明寺」の寺号をも復して名実ともに再興に至りました。
これにより円明寺では義辨通範上人を「中興の祖」と言い、智榮静性律師を中興第二世と言います。
また、義辨上人から数えて現在第九世となります。
≪令和2年現在 江戸中期の再興から299年経過≫
円明寺を再興された義辨通範上人(以下義辨さん)についてその半生を記すものは有りませんが、前述の第二世智栄の記した円明寺再興に至る記録「過去帳別記 智栄」部分のみが義辨さんの人となりを垣間見る唯一のもので、円明寺別記では、
①久々利九人衆中で少石高(しょうこくだか 350石)の三尾氏が、大切な土地を寺再建に寄進したいと思い至らせるほどの、徳の高い僧侶である事。
②市岡宗栄氏と深い信頼関係が有ると思われる事。
③義辨さんに付き従い、亡くなってからでも師の志を受け継ぐ弟子が居た事。
等々鑑みるに、信念を貫き、周りの信頼厚く、人の心を動かすほどの聡明で慈悲深い人柄の様に想像します。
また、義辨さんは多くのものをこのお寺にもたらし、残されました。仏像はもちろん、仏画・仏具・行法次第等です。
中でも行法次第(供養法・祈願法・作法・口伝等を記した文書)は五十数種、さらに「秘鈔」三十四巻(東寺観智院本)等々は、義辨さんの修行の時期、さらに義辨さんと関わる人物、円明寺再興前後の様子などが見えてきます。
①義辨さんと野中寺(やちゅうじ)
義辨さんが河内の野中寺の門人となった時期は不明ですが、当時の野中寺は、戒律を重んじる律の三大僧坊の一つに数えられ、宗旨宗派を超えて多くの僧が修学する一大道場でした。僧坊に入り門人となれば出家得度の後20歳以下は沙弥(しゃみ)として修学し、20歳になると通受比丘(つうじゅびく)として5年間の修行後には具足戒(ぐそくかい)を授かり晴れて正式な比丘(びく・僧)となる。比丘となった者は僧坊を出て他寺に入る事や寺を開く事が許され、また僧坊に残る比丘は依止(えじ)・和尚・阿闍梨(あじゃり)として後進の指導に当たりました。
義辨さんが残した行法次第には元禄15~宝永3年(36~40歳)に伝授を受けた記録が有り、法流の伝授を受けた時点から遡ると5年以上前に入門したものと考えられ、さらに西大寺流の正嫡に至るまで5年或いは10年遡るものと思われます。これは五夏已満という5年間の修学研鑚が区切りとなる事と、西大寺流の法流は一人の弟子だけに伝授された事から、義辨さんは入門して長くて20年、短くて10年は修行されたと考えられます。
(五夏とは五年に亘り夏安居・冬安居を過ごす事。 安居とは出家者の三ヶ月にわたる修禅期間を言う)
野中寺ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E4%B8%AD%E5%AF%BA
②秀嚴(しゅうがん)和尚と唯如(ゆいにょ)和尚
義辨さんの行法次第には「唯如」という名前が数か所に見られます。唯如さんは「戒龍唯如」という僧侶で、野中寺にて1歳年上の先輩比丘でした。既に指導的立場の比丘で、義辨さんの行法次第からは唯如さんに直接指導を受けていた様子で、唯如さん自ら所持の文書も手渡されました。右上の西大寺流略系図では秀厳和尚から法流を授けられていますが、直接の指導は唯如さんであると思われます。
唯如和尚は、後年(宝永6年)現在の岐阜県山県市「三光寺」の中興開山をなされ、三宝院流の大阿闍梨として多くの弟子を育てられました。義辨さんがこの地にお出でになった事も少なからず関わっておられたものと推測します。
(三光寺ホームページhttp://sankouji.main.jp/)
義辨さんの師秀嚴和尚と先輩唯如和尚は、後年名僧として名高い慈雲尊者20歳の時(慈雲飲光 元文二年1737)に秀嚴和尚は「具支灌頂」を、唯如和尚(72才)は「秘密儀軌」を当時の慈雲比丘に授けられました。
(参考文献『正法律興復大和上光尊者伝』)
円明寺の堂宇再建は、享保6年春(1721)より12月にかけて行われました。
さかのぼって享保3年(1718)初夏には「秘鈔」三十四巻が寺に寄進奉納されました。秘鈔とは真言密教の法流「三宝院流」の全てを網羅し集成した膨大な文書です。
義辨さんは、この秘鈔全巻を学び、どれだけの時間を費やして書写されたのか、その労力は大変なものであると推察できます。目録の末に、
「濃州可児郡泳里於草庵拜書
義辨 生年 五十二」
とあり、久々利(泳里)の草庵に於てと記されています。
自らの名前と、日付、文書名、寄進の施主名を記して書写成満を迎えられました。
写真は東寺観智院本を書写した「秘鈔全部三十四巻」です。
秘鈔を寄進した施主は、伊勢桑名の市岡傳左衛門丈と伊勢関宿の橋爪市郎兵衛丈です。名前の最後の「丈」は年長者への敬意を表す字です。
①市岡傳左衛門丈(市岡宗栄・与左衛門)
伊勢桑名の市岡傳左衛門氏は、元禄年間に大阪の「市岡新田」を開発し、円明寺再興の本願主である市岡宗栄氏(与左衛門)その人です、弁天様・観音様への信心篤く、西国三十三観音の参拝後「観世音菩薩画像」一軸を円明寺に寄進奉納されました。
市岡家と義辨さんは、いつどこでご縁を得たのかはわかりませんが、市岡氏と義辨さんは個人的にも深い関わりが有りました。
円明寺の過去帳には、
○「一譽心空宗賢法師」
宗栄氏の父で出家者(法師は出家者)「宗賢」を名乗る
○「摂取院光譽照和宗栄居士」
円明寺再興 本願主 市岡傳左衛門「与左衛門」「傳左衛門」「宗栄」と名乗る
秘鈔寄進・観世音菩薩一軸寄進・本堂灯篭寄進(寄進者 宗栄・宗勝)
円明寺持仏堂に歴代住職と共に位牌を祀る。
○「義峰宗融居士」
宗栄氏の子「五代傳左衛門宗融(祐)」を名乗る
≪宗融(祐)氏の名前は、伊波之西神社(日子坐命墓 岐阜市岩田西)の石灯篭の銘に有り(享保17年8月)≫
戒名並びに俗名が見受けられ、このほか市岡家の妻や子供の戒名が記されおり、円明寺に於いても一族の菩提を弔っていた事がわかります。
また、市岡家は、もと美濃の出身と伝えられ、この地域の事情には大変明るいのではないかと思われます。
因みに市岡氏が開発した「市岡新田(干拓地)」は、当時開発された中でも最大の新田でした。市岡氏一族はそこで米・野菜の栽培をしており、特に「市岡すいか」は有名で、落語では「市岡すいかは種まで赤い」などと評判の特産品であったと言われます。(六代目笑福亭松鶴「遊山船」)
現在その地は「市岡」という地名で、市岡氏が信仰の弁天様の名残の「弁天町」の駅名・町名や、波除公園には「市岡新田会所跡」の石碑が残っています。
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ『弘化改正大坂細見図 大阪古地図集成 第14図』 部分図)
弘化2年の絵図。河口近くに開発された新田が描かれ、中ほどに見える市岡は当時最大の新田でした。
市岡新田会所跡(事務をとるための建物が有った) 波除公園の波除山(中央の小山)
②橋爪市郎兵衛丈(橋爪休意氏の二代目)
伊勢関宿の橋爪市郎兵衛氏は、関の豪商である二代目橋爪市郎兵衛氏です。
橋爪氏と義辨さんは市岡氏によるご縁と思われ、市岡氏は、大阪の新田開発以前に桑名に於いてすでに新田開発(上之輪新田)を行っており、初代市郎兵衛氏の新田開発と何らかの関りが有ったものと推測します。
父の初代市郎兵衛氏は橋爪休意と名乗り、若くして大阪に出て丁稚から始まり、努力の末に商売を学び、関宿に帰り出店し、一代で豪商と言われる財を成した方と言われます。
(参考文献 愛知厚顔氏の投稿「東海道の昔の話(53)」)
http://www.shimin-kyodo.sakura.ne.jp/bungei/aichikogan/tokaido53.htm
休意さんはまた、木崎村の洪水被害(天和元年 1681 亀山市関町木崎)では自費で堤を修復し新田を整え、新所村では用水を引き新田開発を行う(元禄九年 1696 亀山市関町新所)など地域に良く尽くされ、信仰に篤く寺社への寄進奉仕は周囲が良く知るほどの大徳でした。橋爪家では代々市郎兵衛を名乗り、良く信心を成されたようです。
(参考文献 亀山市史 近世第4章 2節 1項)
http://kameyamarekihaku.jp/sisi/tuusiHP/kinsei/honbun/04/02/pdflive.html
現在、関の宿場には「橋爪家住宅」が有り、市郎兵衛さんのご子孫が健在で住まいなさっておられます。
先頃、失礼とは存じましたが、不躾にも突然お宅を訪ね、橋爪家初代・二代のお話を聞かせていただきました。ご夫妻共に快く応対いただきました事、誠にありがたく感謝申し上げます。
下は現在の「関宿のイラスト案内図」です。
①木曽義仲の末裔 三尾村の源氏
江戸中期(享保1716)土地の寄進をし、円明寺再興に大きな貢献をなされた地頭三尾氏は、元は木曽の武将で、木曽義仲(源 義仲)から数えて第七代木曽家村の四男贄川家光を祖とし、代々贄川に住して木曽家に仕え、十一代五郎左衛門長春の時代に三尾に移り住み、度々の戦功の褒美に三尾村をあてがわれ以後三尾氏を名乗ったと伝えられます。
三尾家に受け継がれた武勇伝に、武田信玄が美濃に侵攻の際、阿寺城攻めに木曽家が武田方に加勢する中、三尾長春・将監親子は木曽家の武将としてよく奮戦し、将監は傷ついた父(長春)を背負いながら敵と抗戦したと伝えられ、武勇の誉れ高き家柄でありました。
三尾家の屋敷は薬師洞川を挟んで円明寺の東の平地に有りました。
また屋敷の南には連なった石垣が有り、先代住職(第八世正善和尚)は、「先代(第七世俊盛和尚)より石垣の下の平地は『馬場』であったと聞いている」。との事で、戦国の世を生き抜いた三尾家ならではの備えであったのか、或いは遡って土岐家時代の屋敷の備えであったのか、いまだ不明で、今後調査が必要と考えます。(現在の円明寺駐車場)
・希望を抱いて名古屋へ
寛文五年(1665)宗門改めの手形差出について、久々利九人衆は、山村(甚兵衛)・千村(平右衛門)の両家を通じて提出する事は、両家の配下である事を認める事となる。「我々九人衆は、もとは親・祖父が家康公への忠義によりそれぞれが徳川家に取り立てられたもので、両家の配下ではない」として、両家を通さず手形を寺社奉行に直接提出した。この問題から九人衆の内には山村・千村の両家との間の確執が表面化したと思われます。
これ以後、寛文七年(1667)には山村(甚)・千村(平)の両家を除いた九人衆(以後久々利衆)は、将来の家の存亡と、その名誉を護ろうと名古屋に希望を抱いて移り住みました。
三尾家が名古屋に移り住んだのは、三尾左京(重安)の代で、勤めは尾張徳川家の寄合で、尾張徳川家の江戸などへのお供や、お使いの役となりました。
③三尾家と薬師堂
三尾家では、名古屋移転後間もなく翌寛文八年(1668)には旧円明寺の薬師堂を再建し、その33年後(元禄14年 1701)には薬師堂修理を行い、お堂の建設・修理には三尾左京の子三尾惣右衛門(安信)が施主となり行われました。
このころ三尾家の当主は、尾張徳川家に三尾左京が天和二年(1682)に隠居を申し出て、三尾惣右衛門(安信)が後継となりました。惣右衛門は前述の薬師堂再建(1668)では「地頭三尾惣右衛門尉安信 」とあり、既に父左京に代わり地頭として家督を継いでいました。33年後の薬師堂修理(1701)の際は「尾州太守松平氏吉通公幕下 地主 三尾惣右衛門尉」とあり、惣右衛門がこの地の地頭から尾張徳川家に勤める身となった事を表しています。
・新規とりたての家臣並みの扱いにあった久々利衆
この時の三尾惣右衛門の石高は、父(三尾左京)の隠居に伴い500石から350石に減らされ、150石が尾張徳川家に藏入りとされました。元は江戸徳川家(家康)から拝領の知行500石であったものの、尾張徳川家の家臣に新たにとりたてられた人と同じ扱いとなってしまいました。
希望に満ちて名古屋に移り住んだ他の久々利衆(原十郎兵衛・千村藤右衛門・千村助右衛門・山村八郎左衛門・原新兵衛)もまた石高を減らされて経済的には豊かになる事は出来なかったようです。
石高を減らされた三尾家ではありましたが、土岐家により建立されて以来215年経過のお堂を再建し、30年後には修復を行い、丸山村の人々と共に薬師如来を護り続けました。三尾家が薬師如来に祈る事には、義仲の末裔として戦国の世を生き抜き、三尾村から丸山村へと移り、太平の世に安堵した一族には、太平の世ならではの試練と向かい合うための極めて深い思いが有ったものと思われます。
・円明寺再興の大施主「可休居士」は誰?
享保の時代になり義辨上人の円明寺の再興(1721)では、「円明寺別記 智栄」には、三尾可休居士が土地を五十畝(1,500坪)有余寄進したと記されますが、はたして三尾可休居士が久々利三尾家三代の三尾惣右衛門尉安信であるのか、或いはその後継者であるのか不明のままです。
仮に惣右衛門が寛文年間に20代で家督を継いだとするならば、享保の頃までには50数年経過し、70代前半頃で、すでに隠居しても良い年です。また「可休」とは「やすむべし」の意味合いで、もしかして隠居した後の雅号であるのかとも考えられます。三尾惣右衛門さんは治郎左衛門・安信・可休と名を使い分けて名乗ったのであろうかと想像が膨らみます。
今後引き続き調査を行いたいと考えています。また、久々利三尾家に関する資料等ご存知の方は、お知らせいただければ幸いに存じます。
健善坊
(参考文献 三岳村史 下巻 中津川市史 中巻1第5編 近世1)
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